Spare Times

暇な時に書きます

ある27歳の手記

 これからはじまる文章は、僕の高校時代の友人F君の手記をもとにしている。というか手記である。F君は現在27歳になるが、定職にはついていない。また、正社員としての職歴もない。彼がなぜ、27歳職歴なしで無職という状況に陥ってしまったのか。それは社会が抱える問題のためなのか。あるいは、ただ単に本人に働く意思がなかったから? 友人も多く(勉強以外は)順風満帆に見えた高校時代は、みなおそらく彼のことを「要領よく社会にとけ込むタイプ」と見なしていたはずだ。そんな彼がなぜこんなことになってしまったのか。僕もよくわからない。だから解釈もしない。事実だけをたんたんと載せる。

 

<F君の手記>

2008年:19歳
 俺は高校卒業後、進学もせず地元の地方都市にて日雇いの派遣でその日暮らしをする生活をすることにした。進学をしなかった理由は、家族に大学への進学を反対されていて、それならば働こうということになったからだ。学力があれば反対されなかったかもしれないが、それは高校できちんと勉強をしていなかった俺が悪い。

 日雇いの派遣で、月給はだいたい5万円ぐらいだった。このくらいのお金でも何とか生活できていたのは、実家暮らしだったことが大きい。とりあえず車の運転免許は取りに行った。

 ある日、俺は友達に誘われパチスロを打った。運良く6000円ほど勝った。次の日も打ちに行った。その時は10000円ぐらい負けた。まぁ、昨日勝った分と合計したら4000円負けか、OKOKと。すでにもう金銭感覚は狂っていた。日雇い派遣、自動車学校、パチンコ屋。他にすることは無かった。娯楽の少ない地方都市ではこれ以上の選択肢はないと思っていた。そして、人生なんとかなるだろう。誰かが助けてくれる。この時はそう思っていた。

 

2009年:20歳
 この年、日雇い派遣を辞め、スーパーでバイトを始めた。バイトを始めた理由は、家から近かったから。それと、亡くなった母親が昔パートで勤めていた店で、働いた理由は後者の方が大きかったと思う。仕事は簡単だった。ほぼレジを打つだけだった。

 人間関係も良かったからストレスは無かった。月給は9万円だった。たまに10万円稼いだりもした。その時は嬉しかった。バイト以外では、まだ10代だったし、友達と遊びまくっていた。パチンコ屋、カラオケ、ビリヤード、卓球などで遊んでいた。当時、不安や焦りは一切無く、毎日がラクで良かった。車を親に買ってもらっていたのも大きい。今振り返ると、俺は友達のアッシー君(死語)になっていたと思う。その時は全く気付かなかったんだが。いつでも呼び出せるただ乗りタクシーがあれば、誰しもがそうするだろう。
 成人式では同級生とたくさん会った。ほとんどの同級生が大学生だった。羨ましかった。が、そこまで劣等感は感じていなかった。それは俺の毎日が楽しかったからだ。
成人式の打ち上げで親しかった連中とお酒を飲んだ。「F君今なにしてるの? 」。急にこの言葉が怖くなった。俺は正直にスーパーでバイトをしていると言った。俺にそれを聞いてきた奴は、見下したように笑っていた。

 このあたりから俺は負け組なんだ、恥ずかしい大人だ、と徐々に感じるようになった。しかし、それから少しして俺にとって、本当に大きな出来事があった。バイト先で、常連のお客さんの中にAさんというオバさんがいた。見た目からして元ヤンキーみたいな人だったので印象には残りやすい。俺以外の従業員は、ほとんどがAさんを嫌っていた。理由は閉店5分後に買い物をしに来るからだ。もう閉店しているのに平然と買い物に来る。

 ただ、俺は嫌いではなかった。むしろよく世間話をする仲になっていた。しばらくして、Aさんが娘を連れて俺のレジに並んできた。若くて可愛らしい女の子だった。娘とは特別喋ることはなかった。それからは次の日も、その次の日もAさんは娘を連れて俺のレジに並んできた。少しずつ、俺は娘とも喋るようになった。当時、その娘は16歳だった。ある日、娘からレシートを渡された。そこにはメールアドレスが書いてあった。

 馬鹿な俺でも、これが何を意味するかは分かった。娘はこんな俺に対して好意を持っている。そう確信していた。ただこの時は、Aさんの娘だから傷付けないようにしておこう。その程度の気持ちだった。その夜、さっそくメールを送った。それから毎日、メールを交換するようになる。次第に俺もAさんの娘のことが気になりだしていた。
ある日、Aさんの強引な提案で、娘と2人でご飯を食べに行くことになった。毎日メールをしていたものの、直接会うのは恥ずかしかった。それからは自然な流れで距離が縮まっていった。面と向かって付き合ってください、とは言っていなかったものの、カップル同然の付き合いが始まっていた。

 幸せの絶頂だった。今までの人生で一番楽しかった。それまでの俺は、母親を亡くした悲しみを紛らわすために友達と遊んだりパチスロをしたりしていた。でも、この時はその悲しみを完全に消し去ることが出来ていた。Aさんは、俺の母親のような存在になっていった。しかし、この幸せは1年も持たなかった。


2010年:21歳
 その子とは、わずか9ヶ月で別れることになった。自分の何がいけなかったのか、それは別れてからAさんに教えてもらった。俺の気分屋過ぎるところに嫌気が刺したそうだ。俺はしばらく毎晩泣いていた。金縛りにもなった。独りになってからすごく寂しい毎日が始まった。

 元々、彼女なんて一度もいなかったくせに。一度、好きな人との時間を過ごしてしまったから、気持ちの落差が大き過ぎた。彼女と別れても、Aさんと俺はスーパーでほぼ毎日会って、喋ったりしていた。喋っている時は楽しかった。でも、あの子のことを切り離すことがどうしても出来なかった。Aさんとの付き合いは、このまま2年ほど続くことになる。

 結局俺は、あの子のことが好きなままであった。本当に気持ち悪い男だ。この日記?を急遽書こうと思い、過去を振り返ってみたところ、ほとんどがAさんとの思い出であった。それはあの子との関係も修復したいがためにつき合っていたんだと、今は思う。もう音信不通になって3年が経つ。それでも時々あの頃を思い出す。特に最近はよーく思い出す。良い思い出を忘れたくないからだろうか。

 

2011年:22歳
 時系列が思い出せなくなってきたな。23歳の秋に大阪に行くまでの俺の暮らしは、ほぼAさん一色だった。相変わらずスーパーでバイトをしていた。大学生の友達は就職活動で忙しそうにしていた。この頃にはもう完全に俺は人生を諦めていた。というより、頑張ろうという意欲がこれっぽっちも無かった。それは今も同じなのだが。

 この頃から徐々に友達だった奴らが俺から離れていったような気がする。当時の俺の口癖は「死にたい」「働きたくない」だった。


2012年:23歳
 俺は親父の命令で、長く勤めたスーパーを辞めた。そして、これも親父の命令で食品工場でバイトを始めた。ただし、わずか2週間で辞めた。体が辛かった。失業保険を貰いながら仕事を探していた。その頃、友達のYくんから連絡があり、大阪に居るからこっち来いよ。俺の家に居候させてやるから。という誘いを受けた。

 俺は悩んだ。見知らぬ場所で生活するのが怖かったというのもあった。家族と離れるのが寂しいというのもあった。Aさんと離れるのが寂しいというのもあった。結局、大阪に行く前に、Aさんとは音信不通になった。音信不通になったというか自分から連絡を取らないようにした。何度も何度もAさんに電話したくなったが、我慢し続けた。たぶん、この頃はAさんを自分の母親のように思っていた。
 今振り返ると、自分の意思だけでは大阪には間違いなく行ってなかった。友達のOくんに、そのYくんから誘いの話を言ったところ、やたら煽られた記憶がある。どうせ行く勇気もねぇだろお前?みたいな。なんか腹が立ったから俺は大阪に行くことを決めた。嫌になったらすぐ地元に帰れば良いやぐらいの気持ち。

 大阪は大都会だった。初めて大阪駅に降りた時の興奮は今でも忘れない。Yくんのおかげもあり、大阪は思っていたよりも居心地が良かった。俺は失業保険を貰うためだけに職業訓練校に通い始めた。簿記や社会保険の勉強をした。いや、勉強はしてない。授業に参加していただけだ。職業訓練が終わってから大阪で就職活動を始めた。職業訓練の影響もあってか、俺は経理事務の仕事に就きたかった。何社か受けたがどこもダメだった。パートすら受からなかった。事務職は諦めようと心に決めた。

2013年: 24歳
 俺は職業訓練校の先生に、お前は声が良いから営業やってみろ、と言われたから営業職も探すようになっていった。なんてしょーもない理由だろうか。俺は職業訓練校の社員さんからの推薦(?)もあり、通っていた職業訓練校で1年間の契約社員として働くことになった。営業職だった。

 仕事内容は人材紹介会社での職業斡旋業務であった。もちろん初めてやる仕事内容であった。俺はこの1年間、営業らしい仕事はほとんどしなかった。よくのうのうと居座り続けたなぁと、我ながら思う。この1年間で身に付いたことは麻雀のスキルだけだ。当然、1年で契約満了となり俺は無職になった。また俺は失業保険に頼りながらその日暮らしをしていた。無職のくせに、実家はド田舎だから帰りたくねぇと思っていた。この時の俺は家から外にも出ずに部屋で寝てばかりいた。寝たら死んでた、ってなれば良いなと思ったりもしていた。

2014年:25歳
 大阪でクソみたいな毎日を過ごしていた時、またも俺はOくんに触発されることになる。「東京行きたいんなら東京行ってみれば?どうせお前じゃ無理だけど」みたいな感じだったはず。この頃、俺はOくんしか連絡を取り合える友人がいなかった。田舎者の俺は、都会に憧れており、大阪よりも都会な東京にも行ってみたいな、と思うようになっていた。
 俺は親の反対を押し切り、大阪から東京に引っ越しをした。東京では多摩市に住むことにし、家賃を抑えるためにシェアハウスを選んだ。東京に引っ越ししたのは良いものの、なんと俺はそれからもしばらくニートであった。懲りずに営業職で仕事を探していたものの、いくら東京でも現実は厳しかったため、やる気を失っていた。親父とは3カ月の内に就職出来なかったら実家に帰りますと約束をして上京したのに。本当に人間のクズである。
 親父はなんだかんだ俺に優しい。俺は3カ月が経った後も東京に居ることが出来た。無職のくせに。俺は家の近くの24時間スーパーでバイトを始めた。久々の労働だった。スーパーでの仕事だったから簡単だった。夜勤なのは辛かったが。バイトをしながら主にエージェント経由で就職活動を行っていた。営業職と販売職で探していた。エージェント経由だと何社か面接には辿り着けるのだが、やはり落ち続けた。リクナビネクストからは9割以上の確率でエントリーの段階で落とされた。自分の中で納得は出来ていた。現実は厳しいと。

2015年:26歳
 懲りずに就職活動を行い続けた。すると、ある会社から面接OKの返事が来た。募集内容は営業事務だったため、なんで面接してくれるんだろう?と不思議だった。面接官は部長だった。関西弁で喋るゴッツいオッサンだった。すごく怖かった。しかし、何故か気に入ってもらい、その場で採用されることとなった。営業事務じゃなくて営業職、そして正社員でと言われた時は驚いたが。まさかの人生初就職が決まり、俺は嬉しかった。すぐに、親父に電話をした。親父はそこまで喜んでくれなかった。おそらく、実家に帰ってきて欲しかったのだろう。

2016年:27歳

 そして、俺は試用期間中にその仕事をやめた。別にブラックだったからではない。この歳までにつけておくべきだったスキルが何一つとしてついておらず、毎日足を引っ張っていた。仕事は日に日に嫌になり、辞めようと決意した時には、なぜだか東京という街自体にも疲れ果てていたように感じていた。だから俺は、東京から実家へと帰った。そして今、毎日家にいて働きもせず、たまに農家の手伝いをしているものの、自堕落な日々を続けている。27歳、この後、俺はどうなってしまうのかという不安に苛まれる毎日だ。




バカ。