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Spare Times

暇な時に書きます

場末のドンキホーテ

都会に出てみなければ語れないことがあるように、都会から離れてみなければ語れないこともある。「場末(都市の中心から はずれた所)」という言葉が内包する寂れた感じは、充実した遊具が揃い、日々新しいアトラクションが生まれていくテーマパークのような空間では、決して味わうことができない。だからこそ、波のようにうごめく賑わいからのまなざしは、廃れた場所をたまに懐かしみ、いつもは寄り付くこと良しとしない。この盛り場からの暴力性を帯びた視線こそが、場末を場末たらしめている理由のひとつでもある。

 

東京都心を「盛り場」と定義すると、日本のおよそ80%くらいが「場末」となるのかもしれない。フェルミ推定なんかを使うことなく、適当にはじき出したこのパーセンテージ、実は案外的を射ていると思う。それは単に面積や人口密度、駅の乗降客数やお店の売り上げから算出した結果ではなく、肌感覚で、「そういうもの」として受け入れていることだからだ。私たちがことあるごとに祝祭空間へ通うのは、錆を洗い落すことや、賑わいを求めているからに他ならない。

 

「場末」と結びつくワードは、なにも寂れだけではない。場末という感覚を色濃く映し出すのは「連帯」であり、(鬱々としていつつも)結びつきの強いコミュニティをそこに見いだすことができる。誤解を恐れながら言えば、 戦後の闇市的なものをイメージしてもらえばよい。包摂するコミュニティの力が強いということは、得体の知れないものを排除する力も強くなる。コミュニティ間の移動が難しいのはそのためで、たとえば、引っ越しに労力がかかるのも頷ける。あるコミュニティのなかで、私たちは驚安の殿堂 ドン・キホーテで買い物をしつつ、驚安の殿堂 ドン・キホーテで買い物をするジャージ姿の人々に嫌悪のまなざしを向ける。