Spare Times

暇な時に書きます

潔癖症です

過剰な清潔社会と他者排除の関連について少し考えている。「清潔社会」に関する先行研究や新聞記事、学術雑誌などには、その結果としてアレルギーに弱くなった人が増えたというような、身体的な影響についての記述が多くみられた。

 

しかし同時に精神的な面ついての言及では、他者排除につながるのではないか、という懸念も述べられています。僕は理系ではないのでアレルギーや菌のことについてはよく分からなかったけれど、排除というのはなんとなくイメージできた。

 

清潔と排除というと、一見相関関係すらもないように見えますが、清潔に区画された団地で起きた事件や、 学校でのいじめ事件、浮浪者を襲撃する事件を見ていると(赤坂の『排除の構造』など)、そこには危うさのある、異物排除の構造が見え隠れしていると感じます。

 

自分の身体のにおいを無臭化してしまう社会、 他人を触ったものをも否定してしまう社会では、生のぬくもりが感じられず、現実性のない、虚構の社会に生きているという不安に襲われるのではないのかな、ということを考えています。そして、その虚構性こそが他者排除へつながるのではないだろうかと。この過剰清潔になった社会によって引き起こされる、排除の問題はとても興味深いと思うので勉強していきます。

編集者のメディア・ガイド(烏丸おいけ編)

  • イベント登壇:1000円〜/2h
  • イベント司会:2000円〜/2h
  • (メディア)コンサルティング:3000円〜/2h 
  • ブレスト参加:2000円〜/1h
  • クリエイター紹介:30000円〜/1人
  •  撮影:200円/3h  ※写ルンです
  • イラスト:1000円/1点
  • ラジオ出演:2000円/2h
  • カラオケ:5000円/2h〜
  • 飲み会:5000円/2h〜
  • 本を売る:500円/1冊〜

執筆 10000円〜/1記事    

面白そうだったり、知人の依頼ならばディスカウント及び無料でやります。

編集 7000円/1記事

面白そうだったらディスカウント及び無料でやります。

献本
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意見交換会

数年前のこと。雨の新宿を濡れながら歩いていたら道を聞かれたので、良かれと思って相手も自分も濡れながら1時間くらい教えてあげていたら、なぜかその後で意見交換会をすることになった。最近はしていないが、たまにメシを食ったりする。

 

今日は新宿で外国の人に道を聞かれて目的地まで連れて行ってあげたら、一緒にメシを食うことになった。こんなことが、良いか悪いかは置いといて、よくある。この新宿という街の持つ混沌さは様々なもの、というか関係性を包摂する。そして私たちは新宿に沈殿して、また混ざり合う。

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嗚呼、向井太一くん

向井太一氏のアルバム『24』で特筆すべき点は2曲目の『STAY GOLD』にある。「共感」(ここでは言葉の再生産について指摘があるが、つまり言葉の軽さを示している)そのことについて、ややシニカルに書かれた向井のリリックは“流れていく時代の中で その言葉で その音で 何が伝わるの?”のフレーズから、重みのない言葉や音についての問題提起をする一方で、詩の最後にあるこのフレーズ、“この言葉で この声で そこまで届くまで”からは、葛藤しつつ、もがきながらも、ある決意をした向井の心情を見出すことができる。リリックとメロディとの見事な調和で完成したのは、甘さやクールさなど感じさせない、向井太一の秘める「熱」、あるいは「怒り」から成り立つ力強い楽曲。2017年以降のカルチャーシーンで、自分の立ち位置を確立してしまうことは自明、そしてそれだけに止まらない向井太一のおおいなる才能を、まざまざと見せつけられた。

 

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「共感」を作る仕事って、なんだろうね。

「共感」について考えるきっかけになったのは、5月4日に投稿された國分功一郎さんのツイートでした。

 

 

 

この近接性について考えねばと思ったのは、國分氏の言う書き物(小説なども含む書物)、あるいはインターネットメディアやマスメディア、そして音楽の世界をも横断している問題だと思ったからです。改めて周囲を見渡してみましょう。そこにあるのは「我々と身近で」「自分の問題でもあり」「(他者だけではなく)私たちにも関係のある」ことがらだけです。少なく見積もっても、ほとんどのアウトプットは私たちの身の回りにある出来事ばかりなのです。私たちは日々、身近なものについて感覚を刺激されながら一喜一憂している。しかしそれは是なのか?

 

想像力が貧困であってもよいという前提に立っている

 

國分氏のいうこの前提で、話をしようとしてはいないか?

紙のメディアやWebのメディアを見ていると、最近は著者自身の熱量のこもった文章がどんどん削られていっているように思います。ここでの熱量の定義は、その記事にかける気持ちみたいな安直なものではなく、書き手の内側の汚れた部分(=他人には引かれてしまうような思いっきり個人的な重たい気持ち)を指しています。それがめっきり減ってしまって、ほとんどの記事からは熱量を感じることができなくなってしまいました。本当の意味での文体はほとんど残っていません。安い紙でコピーされた薄っぺらい文体しかない。

 

他人から見ると、個人の重たい気持ち・想いって、たぶんまったく共感できることではなくノイズになってしまうものです。つまり「身近」であることがあらゆる場で求められ始め、書き手の熱量のベクトルが全く別の方向に変わってしまった。

 

話題に上がるのはもちろん読者の感情が触れやすいものですし、「すごいね」「面白い」となるものです。でもそれって前提にあるのは想像力が貧困でいいってことですよね。酔ってきた。

 

これを受けて思ったのが、(日本の)ロックバンドの歌詞のほとんどが「身近」「自分の問題」を語っているだけということです。もうロックに限る必要はないのかもしれません。音楽は歌い手の周辺の物事で完結してしまっている。貧困な想像力に訴えかけることで「共感」を得るだけになっている。数多くいるアーティストの需要が細分化されるのは、この共感したリスナーをそれぞれ取り込んでいるからで、イコール大きな物語を読ませることができていない。だから大きなヒット作品も生まれない。アリーナを埋めるアーティストが、もう一方ではその存在くらいしかしられていない。

 

僕はリリックや文章などに対する安易な「共感」という言葉がマジで嫌いなのですが、それは「読み手(聴き手)の想像力が貧困であってもよい」という前提があって、貧困な想像力にフックをかけて釣っているだけだからです。そもそも共感って非常に立体的な感情ですよね。あらゆるものにシンパシーを感じることができないのは、共感がそれだけ複合的なもので形成されているからです。すごくバカみたいな表現をしますが、例えば“安い共感”と“高い共感”があるとします。今起きていることは、身近な事柄を「想像力が貧困な他者」に語りかけて、“安い共感”を得ているだけです。とても軽い。

 

この安い共感を切り売りして得られるものは、端的に言ってPVだったり、いいね!だったり、時として実売やDLだったりすると思うのだけれど、そこに本当に「エモーション」は存在しているのかという哲学的問いについて考えなければならない。感情とは何か。感情って何ですか。いや、考えるだけ無駄で、そこにエモーションはない。

 

知人のカルチャー誌編集長に、「最近注目しているロックバンドはいますか?」という質問をしたら「みな身近なことばかり歌うので最近注目しているロックバンドは日本にはいません」と返ってきたことがありました。たぶん國分さんの言ってる内容と意味は同じで、

“近く”ないと想像できない知性の現状を何とかしようとしていない

のだと思うんです。大きな問題を完全に無視してしまっている。それはアウトプット側のものではなく、個とは別の事象としての大きな問題です。そこに触れているバンドっていましたっけ?いたら教えてください。よしなに。

 

あ、あとこの「世界のイメージ」という文章は分かりやすいっす。

 

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烏丸御池という場所

西宮北口から梅田行きの阪急電車に乗って、途中、十三(じゅうそう)という駅で乗り換えて烏丸まで行き、京都市営地下鉄四条駅まで歩いたのち、そこから210円かけて烏丸御池という駅で降りる。ということを大学時代の彼女や友人と週に1度は続けていて、しかしほとんど一人で通っていたから誰かと共有する思い出ではなく、自己完結的な色合いの方が強い。

 

烏丸御池駅から出ると、道路を挟んだ向かいには大垣書店があって、目の前には名前を忘れてしまったが、スターバックスのような西海岸らしいカフェがあったから授業終わりでお腹が空いていたときはそこで食べるか、定食屋sotoという地下にある飯屋で腹を満たしていた記憶がある。近くにあったマクドナルドは日本家屋のような外観で、さすが京都と思ったものだが、ついぞ一度たりとも行くことはなかった。

 

駅から少し離れたところには知る人ぞ知るセレクトショップがあって、烏丸御池に行く目当てはそのお店だった。大学時代の思い出はそれしかないといっても全く過言ではないほどショップに通い詰めていた。もちろん服も買うのだけれど、ほんとうに楽しかったのは店員さんとの会話で、閉店時間を過ぎても話し込んでいたからたぶん4時間くらいはずっといて、普通のお店だとおそらく迷惑な客と見なされると思うが、店長はむしろ僕の長居を嬉しがってくれていたようで、この音楽を聴いた方が良いと言ってジョージィ・フェイムのCDをくれたし、様々な洋書も読ませてくれた。それからお互い贔屓のプロ野球チームが同じということもあって、赤い球団の話をそれこそずっとしていた。60年代のレコードがかかり、異国情緒あふれる店内はイギリスでいったことのあるお店に似ていたけど、なんせ場所は京都だし、店長もこてこての京都弁だったので、まさしく「異界」である。関西を訪れている著名人もよく来るお店だったので、何度か遭遇したが結局ひとことも喋ることができなかったのが今でも心残りだ。東京の本店で、京都店で会った人と再会したけど、また話すことができなかった。


Georgie Fame & The Blue Flames - Yeh! Yeh!

 

今でも折に触れて思い出すのは店長との会話で、彼は「瞬間」を大切にするひとだった。そんな人とはなかなか会ったことがなかったので黙って話を聞いていたのだが、彼の話のほとんどは、今でも僕が実践していることだから大切なことを学んだと思う。

 

イヤホンをしない、と言っていた。なぜですかと聞くと、だってイヤホンなんかしてたら日常の音を聞き逃してしまうやんか、本当に大切なことは案外日常のなんでもない瞬間に落ちてくるもんやで、と説明してくれて、それ以来イヤホンをすることがなくなって、その代わりにいくつかのものを得たと思う。

 

結婚式で写真は撮らない、と言っていた。なぜですか、と聞くと、だって必ず誰か撮ってるんやから後でシェアしてもらえばええねんと言い、僕がうーんという顔をしていると、結婚式で本当に大切なことはその場の空気をしっかりと目に焼き付けることで、それはレンズ越しでは難しいことだと彼は言った。それから僕は必要以上に写真を撮らなくなって、なるべく自分の目で見ることにしている(なんにしてもだ)。それ以外にも、彼は僕が京都大学の院に行こうか迷っていると相談すると、やはりそれは誰かを通して決めることではなく自分で決断することだと言った。今この瞬間しかできない選択だから大いに悩めと。

 

学生時代は本当に良い思い出がなかったけど、この烏丸御池での経験だけは良かったと言えるし、今度帰省した際には改めて、結婚おめでとうと言いに行きたいと思っている。僕のペンネームは、この土地と彼からもらった大切な時間が詰まっているので、付ける時にはあまり時間を要すことが無かった。今度は烏丸おいけとして烏丸御池を歩いてみることで、自分にしか分からない新しい瞬間を見つけていきたい。