Spare Times

暇な時に書きます

潔癖症です

過剰な清潔社会と他者排除の関連について少し考えている。「清潔社会」に関する先行研究や新聞記事、学術雑誌などには、その結果としてアレルギーに弱くなった人が増えたというような、身体的な影響についての記述が多くみられた。

 

しかし同時に精神的な面ついての言及では、他者排除につながるのではないか、という懸念も述べられています。僕は理系ではないのでアレルギーや菌のことについてはよく分からなかったけれど、排除というのはなんとなくイメージできた。

 

清潔と排除というと、一見相関関係すらもないように見えますが、清潔に区画された団地で起きた事件や、 学校でのいじめ事件、浮浪者を襲撃する事件を見ていると(赤坂の『排除の構造』など)、そこには危うさのある、異物排除の構造が見え隠れしていると感じます。

 

自分の身体のにおいを無臭化してしまう社会、 他人を触ったものをも否定してしまう社会では、生のぬくもりが感じられず、現実性のない、虚構の社会に生きているという不安に襲われるのではないのかな、ということを考えています。そして、その虚構性こそが他者排除へつながるのではないだろうかと。この過剰清潔になった社会によって引き起こされる、排除の問題はとても興味深いと思うので勉強していきます。

知り合いに表情のない(感情を顔に出さない)人がいて、どんなときでも本当に表情がないのだが、結局表情なんてコミュニケーションのほんの一部で、大事なのはそれだけではない。もし怪我や病気で表情筋がまったく動かなくなって、言葉でしか意思や感情を表せない人がいたら、私たちはそのひとの紡ぐ言葉から意思や感情を読み取るわけだけど、たぶんその方がしっかりと意思の伝達ができるような気がする。豊かな表情は時に逆機能的に働いて、本当に大切なものを零してしまう。

編集者のメディア・ガイド(烏丸おいけ編)

  • イベント登壇:1000円〜/2h
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  • ブレスト参加:2000円〜/1h
  • クリエイター紹介:30000円〜/1人
  •  撮影:200円/3h  ※写ルンです
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執筆 10000円〜/1記事    

面白そうだったり、知人の依頼ならばディスカウント及び無料でやります。

編集 7000円/1記事

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意見交換会

数年前のこと。雨の新宿を濡れながら歩いていたら道を聞かれたので、良かれと思って相手も自分も濡れながら1時間くらい教えてあげていたら、なぜかその後で意見交換会をすることになった。最近はしていないが、たまにメシを食ったりする。

 

今日は新宿で外国の人に道を聞かれて目的地まで連れて行ってあげたら、一緒にメシを食うことになった。こんなことが、良いか悪いかは置いといて、よくある。この新宿という街の持つ混沌さは様々なもの、というか関係性を包摂する。そして私たちは新宿に沈殿して、また混ざり合う。

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ワンルーム読書

小さな趣味は読書。なので、とにかく家に本がたくさんある。どれくらいあるかというと、ワンルームの部屋いっぱいに敷き詰めることで収納という体になっているくらい。想像されたし。つまり足の踏み場もない状態なのだ。クローゼットに収納するとカビるし、ボックスに入れれば虫がわく。ということで、本棚に入りきらないものは部屋中に積み上げて置いている。

 

端から見ると、たぶん片付けられていない部屋である。別にゴミ屋敷の人に共感するわけではないが、この本まみれの部屋が、僕は結構心地が良くて、好きだ。世の中では片付けることが流行っているそうで、片付けのためには当然何かを捨てて(あるいは売って)部屋をきれいにしなくてはならない。前にテレビで見たのだが、捨てる際に対象のものをギュッと抱きしめて、離したくなければ捨てないで良いものらしい。

 

僕の場合、本はすべて愛おしい。だからギュッとしても捨てることができない。これからも本まみれの雑然とした部屋ですごす。そう決めている。片付けないことのよさも、実はある。シンプルでキレイに保つことは、ひどく神経を使う。おそらく習慣化する過程で、気もピシッと張っていくからだ。この本まみれの部屋では、肩の力を抜いてリラックスすることができると思っているし、もちろん性格はピシッとなんかしていないのだが、「ストレス社会」にはちょうど良いんじゃないか、そう思ったりする。

「共感」を作る仕事って、なんだろうね。

「共感」について考えるきっかけになったのは、5月4日に投稿された國分功一郎さんのツイートでした。

 

 

 

この近接性について考えねばと思ったのは、國分氏の言う書き物(小説なども含む書物)、あるいはインターネットメディアやマスメディア、そして音楽の世界をも横断している問題だと思ったからです。改めて周囲を見渡してみましょう。そこにあるのは「我々と身近で」「自分の問題でもあり」「(他者だけではなく)私たちにも関係のある」ことがらだけです。少なく見積もっても、ほとんどのアウトプットは私たちの身の回りにある出来事ばかりなのです。私たちは日々、身近なものについて感覚を刺激されながら一喜一憂している。しかしそれは是なのか?

 

想像力が貧困であってもよいという前提に立っている

 

國分氏のいうこの前提で、話をしようとしてはいないか?

紙のメディアやWebのメディアを見ていると、最近は著者自身の熱量のこもった文章がどんどん削られていっているように思います。ここでの熱量の定義は、その記事にかける気持ちみたいな安直なものではなく、書き手の内側の汚れた部分(=他人には引かれてしまうような思いっきり個人的な重たい気持ち)を指しています。それがめっきり減ってしまって、ほとんどの記事からは熱量を感じることができなくなってしまいました。本当の意味での文体はほとんど残っていません。安い紙でコピーされた薄っぺらい文体しかない。

 

他人から見ると、個人の重たい気持ち・想いって、たぶんまったく共感できることではなくノイズになってしまうものです。つまり「身近」であることがあらゆる場で求められ始め、書き手の熱量のベクトルが全く別の方向に変わってしまった。

 

話題に上がるのはもちろん読者の感情が触れやすいものですし、「すごいね」「面白い」となるものです。でもそれって前提にあるのは想像力が貧困でいいってことですよね。酔ってきた。

 

これを受けて思ったのが、(日本の)ロックバンドの歌詞のほとんどが「身近」「自分の問題」を語っているだけということです。もうロックに限る必要はないのかもしれません。音楽は歌い手の周辺の物事で完結してしまっている。貧困な想像力に訴えかけることで「共感」を得るだけになっている。数多くいるアーティストの需要が細分化されるのは、この共感したリスナーをそれぞれ取り込んでいるからで、イコール大きな物語を読ませることができていない。だから大きなヒット作品も生まれない。アリーナを埋めるアーティストが、もう一方ではその存在くらいしかしられていない。

 

僕はリリックや文章などに対する安易な「共感」という言葉がマジで嫌いなのですが、それは「読み手(聴き手)の想像力が貧困であってもよい」という前提があって、貧困な想像力にフックをかけて釣っているだけだからです。そもそも共感って非常に立体的な感情ですよね。あらゆるものにシンパシーを感じることができないのは、共感がそれだけ複合的なもので形成されているからです。すごくバカみたいな表現をしますが、例えば“安い共感”と”高い共感”があるとします。今起きていることは、身近な事柄を「想像力が貧困な他者」に語りかけて、“安い共感”を得ているだけです。とても軽い。

 

この安い共感を切り売りして得られるものは、端的に言ってPVだったり、いいね!だったり、時として実売やDLだったりすると思うのだけれど、そこに本当に「エモーション」は存在しているのかという哲学的問いについて考えなければならない。感情とは何か。感情って何ですか。いや、考えるだけ無駄で、そこにエモーションはない。

 

知人のカルチャー誌編集長に、「最近注目しているロックバンドはいますか?」という質問をしたら「みな身近なことばかり歌うので最近注目しているロックバンドは日本にはいません」と返ってきたことがありました。たぶん國分さんの言ってる内容と意味は同じで、

“近く”ないと想像できない知性の現状を何とかしようとしていない

のだと思うんです。大きな問題を完全に無視してしまっている。それはアウトプット側のものではなく、個とは別の事象としての大きな問題です。そこに触れているバンドっていましたっけ?いたら教えてください。よしなに。

 

あ、あとこの「世界のイメージ」という文章は分かりやすいっす。

 

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「振られるではなく振る」の失恋ラブソングを探してみた

振られた時など、泣きたい時に聴くと泣ける「失恋ソング」。実際に失恋したから共感した、失恋なんかしたことないけど共感したなど、ある種、強制的に共感の発露となり私たちの感性を刺激する特殊な効力を持つため、それこそ感受性豊かな中高生を中心に人気を博しています(“共感”が是か非かは一旦置いておきます)。しかしながら、巷に溢れる失恋ソングはどれも同じ対象、同じ視点、同じアプローチのものばかり。分かりやすく言うならば、異性に振られた悲しみを嘆きそして垂れ流した女々しい曲が目立つような気がします。

 

そんな失恋ソングですが、振られた側からではなく振る側の視点から書かれた曲がいくつかあります。有名どころで言えば、欧陽菲菲さんの「ラヴ・イズ・オーヴァー」。


Love is over 歐陽菲菲

 

Love is over 泣くな男だろう 私のことは早く忘れて

からの

わたしはあんたを忘れはしない 誰に抱かれても忘れはしない きっと最後の恋だと思うから

女性が男性を振る曲です。でも未練たらたらです。そして最後のフレーズが哀愁を漂わせているので懐メロですがじっくり聴いて頂けますと幸いです。

 

男性アーティストの曲だと、かつて存在していたSMAPの隠れた(隠れてないか)大人気曲「オレンジ」も振る側から書かれた曲。市川喜康さんの素晴らしい歌詞で泣ける一曲になってます。歌唱力の無さが惜しまれますね。でもSMAPは歌唱力じゃない!歌唱力じゃない!


SMAP オレンジ

 

また、「すべての男性を殺す小松菜々」で瞬く間に認知度が上がったnever young beachの「お別れの歌」。これはもう聴いてくれ。聴け!すぐに聴け!


never young beach - お別れの歌 / 出演:小松菜奈 [スマートフォン向け]

 

そんな振る側視点の失恋ソングで最もオススメしたいのが、藍坊主の「雨の強い日に」という曲。藍坊主は小田原出身の幼なじみで結成されたバンドで、もともとブルーハーツのコピーバンドをしていたため、「ザ・ブルーハーツ」→「ザ・ブルーボーズ」→「藍坊主」というアーティスト名に。“ハズレ曲が無い”アーティストとして支持され続け数々の名曲を世に出しています。有名なものだとアニメ『TIGER & BUNNY』のエンディングを担当したり、パチンコ「CR ROOKIES」のイメージソングを担当していました。

 

藍坊主が2006年にリリースしたアルバム『ソーダ』に入っているのが、前述した「雨の強い日に」というタイトルの曲です。過去の思い出を振り返るでもなく、別れを惜しみつつ振るのでもなく、「振らなきゃ、振らなきゃ(使命感)、でもいつ振ろう(困惑)」という、振る側の立場になった時に意識する心情を巧く描いていると思います。曲の最後のほうに、"雨の強い日に”というワードが出てくるのですが、「なぜ雨の強い日にというタイトルなのか」という意味を理解した時、振る側の捻くれた優しさみたいなものを感じることができるのではないでしょうか。


作業用BGM  藍坊主フルメドレー全25曲

 

あとタイトルに失恋ラブソングとつけたのは、ラブソングだからです。