Spare Times

暇な時に書きます

意見交換会

数年前のこと。雨の新宿を濡れながら歩いていたら道を聞かれたので、良かれと思って相手も自分も濡れながら1時間くらい教えてあげていたら、なぜかその後で意見交換会をすることになった。最近はしていないが、たまにメシを食ったりする。

 

今日は新宿で外国の人に道を聞かれて目的地まで連れて行ってあげたら、一緒にメシを食うことになった。こんなことが、良いか悪いかは置いといて、よくある。この新宿という街の持つ混沌さは様々なもの、というか関係性を包摂する。そして私たちは新宿に沈殿して、また混ざり合う。

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ワンルーム読書

小さな趣味は読書。なので、とにかく家に本がたくさんある。どれくらいあるかというと、ワンルームの部屋いっぱいに敷き詰めることで収納という体になっているくらい。想像されたし。つまり足の踏み場もない状態なのだ。クローゼットに収納するとカビるし、ボックスに入れれば虫がわく。ということで、本棚に入りきらないものは部屋中に積み上げて置いている。

 

端から見ると、たぶん片付けられていない部屋である。別にゴミ屋敷の人に共感するわけではないが、この本まみれの部屋が、僕は結構心地が良くて、好きだ。世の中では片付けることが流行っているそうで、片付けのためには当然何かを捨てて(あるいは売って)部屋をきれいにしなくてはならない。前にテレビで見たのだが、捨てる際に対象のものをギュッと抱きしめて、離したくなければ捨てないで良いものらしい。

 

僕の場合、本はすべて愛おしい。だからギュッとしても捨てることができない。これからも本まみれの雑然とした部屋ですごす。そう決めている。片付けないことのよさも、実はある。シンプルでキレイに保つことは、ひどく神経を使う。おそらく習慣化する過程で、気もピシッと張っていくからだ。この本まみれの部屋では、肩の力を抜いてリラックスすることができると思っているし、もちろん性格はピシッとなんかしていないのだが、「ストレス社会」にはちょうど良いんじゃないか、そう思ったりする。

「共感」を作る仕事って、なんだろうね。

「共感」について考えるきっかけになったのは、5月4日に投稿された國分功一郎さんのツイートでした。

 

 

 

この近接性について考えねばと思ったのは、國分氏の言う書き物(小説なども含む書物)、あるいはインターネットメディアやマスメディア、そして音楽の世界をも横断している問題だと思ったからです。改めて周囲を見渡してみましょう。そこにあるのは「我々と身近で」「自分の問題でもあり」「(他者だけではなく)私たちにも関係のある」ことがらだけです。少なく見積もっても、ほとんどのアウトプットは私たちの身の回りにある出来事ばかりなのです。私たちは日々、身近なものについて感覚を刺激されながら一喜一憂している。しかしそれは是なのか?

 

想像力が貧困であってもよいという前提に立っている

 

國分氏のいうこの前提で、話をしようとしてはいないか?

紙のメディアやWebのメディアを見ていると、最近は著者自身の熱量のこもった文章がどんどん削られていっているように思います。ここでの熱量の定義は、その記事にかける気持ちみたいな安直なものではなく、書き手の内側の汚れた部分(=他人には引かれてしまうような思いっきり個人的な重たい気持ち)を指しています。それがめっきり減ってしまって、ほとんどの記事からは熱量を感じることができなくなってしまいました。本当の意味での文体はほとんど残っていません。安い紙でコピーされた薄っぺらい文体しかない。

 

他人から見ると、個人の重たい気持ち・想いって、たぶんまったく共感できることではなくノイズになってしまうものです。つまり「身近」であることがあらゆる場で求められ始め、書き手の熱量のベクトルが全く別の方向に変わってしまった。

 

話題に上がるのはもちろん読者の感情が触れやすいものですし、「すごいね」「面白い」となるものです。でもそれって前提にあるのは想像力が貧困でいいってことですよね。酔ってきた。

 

これを受けて思ったのが、(日本の)ロックバンドの歌詞のほとんどが「身近」「自分の問題」を語っているだけということです。もうロックに限る必要はないのかもしれません。音楽は歌い手の周辺の物事で完結してしまっている。貧困な想像力に訴えかけることで「共感」を得るだけになっている。数多くいるアーティストの需要が細分化されるのは、この共感したリスナーをそれぞれ取り込んでいるからで、イコール大きな物語を読ませることができていない。だから大きなヒット作品も生まれない。アリーナを埋めるアーティストが、もう一方ではその存在くらいしかしられていない。

 

僕はリリックや文章などに対する安易な「共感」という言葉がマジで嫌いなのですが、それは「読み手(聴き手)の想像力が貧困であってもよい」という前提があって、貧困な想像力にフックをかけて釣っているだけだからです。そもそも共感って非常に立体的な感情ですよね。あらゆるものにシンパシーを感じることができないのは、共感がそれだけ複合的なもので形成されているからです。すごくバカみたいな表現をしますが、例えば“安い共感”と”高い共感”があるとします。今起きていることは、身近な事柄を「想像力が貧困な他者」に語りかけて、“安い共感”を得ているだけです。とても軽い。

 

この安い共感を切り売りして得られるものは、端的に言ってPVだったり、いいね!だったり、時として実売やDLだったりすると思うのだけれど、そこに本当に「エモーション」は存在しているのかという哲学的問いについて考えなければならない。感情とは何か。感情って何ですか。いや、考えるだけ無駄で、そこにエモーションはない。

 

知人のカルチャー誌編集長に、「最近注目しているロックバンドはいますか?」という質問をしたら「みな身近なことばかり歌うので最近注目しているロックバンドは日本にはいません」と返ってきたことがありました。たぶん國分さんの言ってる内容と意味は同じで、

“近く”ないと想像できない知性の現状を何とかしようとしていない

のだと思うんです。大きな問題を完全に無視してしまっている。それはアウトプット側のものではなく、個とは別の事象としての大きな問題です。そこに触れているバンドっていましたっけ?いたら教えてください。よしなに。

 

あ、あとこの「世界のイメージ」という文章は分かりやすいっす。

 

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「振られるではなく振る」の失恋ラブソングを探してみた

振られた時など、泣きたい時に聴くと泣ける「失恋ソング」。実際に失恋したから共感した、失恋なんかしたことないけど共感したなど、ある種、強制的に共感の発露となり私たちの感性を刺激する特殊な効力を持つため、それこそ感受性豊かな中高生を中心に人気を博しています(“共感”が是か非かは一旦置いておきます)。しかしながら、巷に溢れる失恋ソングはどれも同じ対象、同じ視点、同じアプローチのものばかり。分かりやすく言うならば、異性に振られた悲しみを嘆きそして垂れ流した女々しい曲が目立つような気がします。

 

そんな失恋ソングですが、振られた側からではなく振る側の視点から書かれた曲がいくつかあります。有名どころで言えば、欧陽菲菲さんの「ラヴ・イズ・オーヴァー」。


Love is over 歐陽菲菲

 

Love is over 泣くな男だろう 私のことは早く忘れて

からの

わたしはあんたを忘れはしない 誰に抱かれても忘れはしない きっと最後の恋だと思うから

女性が男性を振る曲です。でも未練たらたらです。そして最後のフレーズが哀愁を漂わせているので懐メロですがじっくり聴いて頂けますと幸いです。

 

男性アーティストの曲だと、かつて存在していたSMAPの隠れた(隠れてないか)大人気曲「オレンジ」も振る側から書かれた曲。市川喜康さんの素晴らしい歌詞で泣ける一曲になってます。歌唱力の無さが惜しまれますね。でもSMAPは歌唱力じゃない!歌唱力じゃない!


SMAP オレンジ

 

また、「すべての男性を殺す小松菜々」で瞬く間に認知度が上がったnever young beachの「お別れの歌」。これはもう聴いてくれ。聴け!すぐに聴け!


never young beach - お別れの歌 / 出演:小松菜奈 [スマートフォン向け]

 

そんな振る側視点の失恋ソングで最もオススメしたいのが、藍坊主の「雨の強い日に」という曲。藍坊主は小田原出身の幼なじみで結成されたバンドで、もともとブルーハーツのコピーバンドをしていたため、「ザ・ブルーハーツ」→「ザ・ブルーボーズ」→「藍坊主」というアーティスト名に。“ハズレ曲が無い”アーティストとして支持され続け数々の名曲を世に出しています。有名なものだとアニメ『TIGER & BUNNY』のエンディングを担当したり、パチンコ「CR ROOKIES」のイメージソングを担当していました。

 

藍坊主が2006年にリリースしたアルバム『ソーダ』に入っているのが、前述した「雨の強い日に」というタイトルの曲です。過去の思い出を振り返るでもなく、別れを惜しみつつ振るのでもなく、「振らなきゃ、振らなきゃ(使命感)、でもいつ振ろう(困惑)」という、振る側の立場になった時に意識する心情を巧く描いていると思います。曲の最後のほうに、"雨の強い日に”というワードが出てくるのですが、「なぜ雨の強い日にというタイトルなのか」という意味を理解した時、振る側の捻くれた優しさみたいなものを感じることができるのではないでしょうか。


作業用BGM  藍坊主フルメドレー全25曲

 

あとタイトルに失恋ラブソングとつけたのは、ラブソングだからです。

 

 

烏丸御池という場所

西宮北口から梅田行きの阪急電車に乗って、途中、十三(じゅうそう)という駅で乗り換えて烏丸まで行き、京都市営地下鉄四条駅まで歩いたのち、そこから210円かけて烏丸御池という駅で降りる。ということを大学時代の彼女や友人と週に1度は続けていて、しかしほとんど一人で通っていたから誰かと共有する思い出ではなく、自己完結的な色合いの方が強い。

 

烏丸御池駅から出ると、道路を挟んだ向かいには大垣書店があって、目の前には名前を忘れてしまったが、スターバックスのような西海岸らしいカフェがあったから授業終わりでお腹が空いていたときはそこで食べるか、定食屋sotoという地下にある飯屋で腹を満たしていた記憶がある。近くにあったマクドナルドは日本家屋のような外観で、さすが京都と思ったものだが、ついぞ一度たりとも行くことはなかった。

 

駅から少し離れたところには知る人ぞ知るセレクトショップがあって、烏丸御池に行く目当てはそのお店だった。大学時代の思い出はそれしかないといっても全く過言ではないほどショップに通い詰めていた。もちろん服も買うのだけれど、ほんとうに楽しかったのは店員さんとの会話で、閉店時間を過ぎても話し込んでいたからたぶん4時間くらいはずっといて、普通のお店だとおそらく迷惑な客と見なされると思うが、店長はむしろ僕の長居を嬉しがってくれていたようで、この音楽を聴いた方が良いと言ってジョージィ・フェイムのCDをくれたし、様々な洋書も読ませてくれた。それからお互い贔屓のプロ野球チームが同じということもあって、赤い球団の話をそれこそずっとしていた。60年代のレコードがかかり、異国情緒あふれる店内はイギリスでいったことのあるお店に似ていたけど、なんせ場所は京都だし、店長もこてこての京都弁だったので、まさしく「異界」である。関西を訪れている著名人もよく来るお店だったので、何度か遭遇したが結局ひとことも喋ることができなかったのが今でも心残りだ。東京の本店で、京都店で会った人と再会したけど、また話すことができなかった。


Georgie Fame & The Blue Flames - Yeh! Yeh!

 

今でも折に触れて思い出すのは店長との会話で、彼は「瞬間」を大切にするひとだった。そんな人とはなかなか会ったことがなかったので黙って話を聞いていたのだが、彼の話のほとんどは、今でも僕が実践していることだから大切なことを学んだと思う。

 

イヤホンをしない、と言っていた。なぜですかと聞くと、だってイヤホンなんかしてたら日常の音を聞き逃してしまうやんか、本当に大切なことは案外日常のなんでもない瞬間に落ちてくるもんやで、と説明してくれて、それ以来イヤホンをすることがなくなって、その代わりにいくつかのものを得たと思う。

 

結婚式で写真は撮らない、と言っていた。なぜですか、と聞くと、だって必ず誰か撮ってるんやから後でシェアしてもらえばええねんと言い、僕がうーんという顔をしていると、結婚式で本当に大切なことはその場の空気をしっかりと目に焼き付けることで、それはレンズ越しでは難しいことだと彼は言った。それから僕は必要以上に写真を撮らなくなって、なるべく自分の目で見ることにしている(なんにしてもだ)。それ以外にも、彼は僕が京都大学の院に行こうか迷っていると相談すると、やはりそれは誰かを通して決めることではなく自分で決断することだと言った。今この瞬間しかできない選択だから大いに悩めと。

 

学生時代は本当に良い思い出がなかったけど、この烏丸御池での経験だけは良かったと言えるし、今度帰省した際には改めて、結婚おめでとうと言いに行きたいと思っている。僕のペンネームは、この土地と彼からもらった大切な時間が詰まっているので、付ける時にはあまり時間を要すことが無かった。今度は烏丸おいけとして烏丸御池を歩いてみることで、自分にしか分からない新しい瞬間を見つけていきたい。

 

居酒屋のばあちゃん

新規開拓がしたいということで、たまたま見つけた居酒屋に入った。細い螺旋階段を上ったところにある。

 

こんばんは、と言うと返事がなかったので営業が終わったのかと思って出ようとすると、扉の奥から「まだやってるよ」という声。なんでも足が悪いらしくて奥の部屋にいたようで、それから店主のおばあちゃんはゆっくりと出迎えてくれる。

 

小さな居酒屋特有の、あたたかい雰囲気がその店にもあって、それはおばあちゃんの人柄によるものだとすぐにわかる。聞けば、この居酒屋は40年以上も続いているとのことで、だいたい「こち亀」が始まったくらいだから歴史がある。

 

お酒が進む。ふと、身の上話を聞いてみる。かつては結婚していたけど今は独り身。子供が、可愛い孫を連れてお店へ遊びにきてくれるのがなにより嬉しいらしい。

 

おばあちゃんがまだ結婚していた頃、夫はたいそう駄目な人間だったようで、6,000万円の借金を作り、おまけに浮気を繰り返されて愛想が尽きたため、すぐに別れてしまったそうだ。借金はすべて肩代わりさせられたけど、今では完済したらしいから逆境に立たされた人間は強いんだな。

 

長くは続かなかった結婚生活も今となっては良い思い出のようで、おばあちゃんの店には今もたまに顔を出すらしい。「あんなやつ、二度来てほしくないねえ」と笑顔でいうものだから、こちらも黙って微笑みながら、ちまちまとお酒を飲んで朝まで話を聞いていた。

 

ーー

 

少し前、その街で働く知り合いにセッティングしてもらい、繁華街にいる風俗嬢たちとファミレスで少ししゃべった  。彼女たちについて書かれている本はたくさん出ているし、そのいくつかは読んだことがあるけれど、たいていの理由は学費を稼ぐため、借金の返済のためなどとある。

 

その日、彼女たちに色々と質問をした。大学の学費を稼いでいたり、父親が病に倒れたため北海道から出稼ぎにきたなど理由は様々だったけど、話を聞く中でひとつだけ驚いたのは、彼女たちが笑顔で語っていること。お店で働いているうちに、理由をお客さんから何度も聞かれたことで生まれた作り笑顔かもしれないけど、あれは当たり前のことを、当たり前にいう時の笑い方に似ている。

 

ーー

「おかれた場所で咲きなさい」という言葉がある。おかれた場所で咲くということは、自分の境遇を受け入れること、そして事実を笑いとばしてしまうことだ。嘘でもいいから笑うことで、本当に楽しむことができているのかもしれないし、少なくとも枯れてはいないだろう。

 

色々な人と飲んでいると、みな、当たり前のように暗い顔で愚痴をこぼす。うつむく人やしかめっ面になりながら誰かの悪口を言うから、当然そこに笑顔はない。苦笑いは笑顔ではありません。「そんな顔じゃあ咲けないよなあ」と思いながら洗面所に行って鏡を見ると、彼らと同じような顔の人間がいて、冷たい水を、思いっきり顔に浸した。