Spare Times

暇な時に書きます

締め切りを破る最良の方法を見つけた

原稿を書かない

お金に執着する人間はお金を得られないの法則

業界の大先輩に言われたこと。20代で、たとえばフリーでライターや編集者をやっていて、何かと「原稿料、原稿料」「お金ください」と言う人は使いたくない、という意見。それを受けて、自分が若者となにか仕事をするとき、そういってきた人間をリストから即座に外すようにしている。なぜならこれは至極真っ当な意見だから。

 

前にも触れたが、自分が受注側になる場合は原稿料を聞かない。これが良くないという人がいるが、つまりは目先のお金にこだわるなということだ。あと、上記で述べた金に執着する人間、たぶん能力はないと思う。だって、あれば言われなくとも出してもらえるから。

27歳になってしまった

永遠に10代が続くと思っていた。

 

20歳を迎えてすぐ、永遠がこの世に存在しないことを知った。少しワクワクして新幹線に乗っていた。地元に着いて成人式に行き、ゴミの掃き溜めのにおいのする人間のカスどもをたくさん見ながら、ああ、結局僕もこいつらと同じ年齢になってしまったんだなと、その時に強く思った。彼らと同じ20歳になるということは、自分がたいして崇高な存在でもないくせに、崖から落とされて同じ立場になることを強制されているような気がした。

 

 この時はまだ他人をたいそう見下していて、もちろん仲のいい友達は別だが、自分とはたいして関わりのない誰かのことが、豚小屋のクソにたかっている銀バエにしか見えていなかった。今となってはこのことをとても後悔して……いるはずもなく、近くに豚小屋なんかめったやたらにはないのだが、地元に帰るたび、ひどく臭いクソだまりのにおいに一週間くらいは鼻腔がやられてしまう。20歳になったときに感じた風は、クソだまりのにおいがした。

 

20代の6年間、そのうち2年くらいはつまらないクソだまりの連中と仕事で接したことにより、鼻が麻痺してそんなに気にならなくなったので人間の環境適応能力にびっくりした。そして世の中にはクソだまりに生息する銀バエみたいな連中が思ったより多いことに気付いた貴重な時間だった。27歳をむかえた今になって、少しだけそう思っている。いや、本当はあまり思っていない。

 

 「他者の存在があり、無人ではないのだから“知覚”は成立するのだ」と、『無人島』という概念にこだわった思想家ジル・ドゥルーズの哲学が、少なくとも他人という存在は必要なのだということを焦らしながら教えてくれた。その思想は、鬱屈したクソだまりのなかにも確かに存在していると思う。

 

 あと3年たつと30歳になってしまうが、それによって劇的に何かが変わるというわけではもちろんないのだけれども(少なくとも体調管理を怠ると肥満は進行するわけだが)、子どもの頃は30歳という存在がそこにあるということを肯定できなくて、それこそ10代が地続きで死ぬまで続くのだと思い続けていた。そんなピーターパンシンドローム的な考えをしている自分も、実はクソだまりの中に生息する銀バエだと気付くのに27年もかかってしまったというわけでした。いろんな銀バエにごめんなさいと謝りたい。銀バエさん、クソだまりのなかにいるみなさん、この場を借りて、ごめんなさい。今度は28歳であいましょう。モスカ!

言語化できないこと

 

ティー・フォー・スリー

ティー・フォー・スリー

 

 

僕は新潟発のアイドルNegiccoさんが大好きであり、なかでもKaedeさんが大好きなんだけれども、この大好きという気持ちよりも、実際はもっともっと大好きなのである。しかしながら、この大好きよりも上の、もっともっと大好きという気持ちは大好きという枠組み、規定を超えた大好きなのであり、この大好きをうまく伝える大好きを、うまく言葉にできない。こんなに、こんなに大好きなのに……。と、あたかも病んでいるかのような書き方をしたけれど、表現において「うまく言葉にできない」という言葉を隠れ蓑にしてはいけない。

 

例えばある有名な博物館の展覧会が近所で行われるとする。美しいものや流行の最先端に敏感なあなたは、休日を利用してそこへ足を運ぶだろう。そしていくらかお金を払って、展示されている有名な画家の作品へと近づき、まずその中心から全体へ向かって眺め始めるか、あるいは全体から中心へと眺め始めることになる。あなたの隣には皺の刻まれた顔で同じように絵画を眺める老人や、展覧会のガイドブックを持った、まだ皺のない若い女性がいるかもしれない。

 

そうしてあなたは次々に、飾られた絵画や彫刻などの芸術作品を鑑賞すると、その展覧会を後にして近所のカフェにでも入り、SNSにこう書き込むはずだ。「すごく良かった」「なんだかうまく言葉にできないけど、とにかくすごかった」。

 

もしあなたが成人女性/男性であるならば、なぜ言葉にできないのかを考えなければならない。私たちはある対象を見たとき、まず対象の様々な情報を一挙に認識し、それぞれについての意味を認識することになる。その過程の中で、「どういった〜であるか」という問いに対し、一つ一つ解を導き出していくことになるのだけれど、うまく言葉にできないということは、この解を導き出していく過程を無視している。雑多である情報群ひとつひとつに向き合うことを省略してしまっては、その全貌についての認識などできるはずがない。「うまく言葉にできない」という言葉はつまるところ、この「考えるという行為」を疎かにすることだ。

 

大好きであるならば、素晴らしいと感じるならば、それがなぜかを言葉にしてみればいい。できなければ、それは本当に大好きでもなければ、素晴らしいとも感じていないことが分かる。

締め切りを守ってもらう最良の方法を見つけた。

催促を頑張る。

ゲニウス・ロキ

webちくまの連載が書籍に。未知なる土地に内在する記憶と、私たちとをつなぐ土地の精霊(ゲニウス・ロキ)との様々な出会いが描かれる。各地の民俗、(紹介文を拝借すると)「近代の底に眠る聖なる存在」を非常に情緒的で美しいテクストにより、質感のあるあたたかいエッセイに昇華させている。『解釈』ではなく『理解』をするために読んでみたい。

 

土地の精霊 (単行本)

土地の精霊 (単行本)

 

 

 

「でも…だけど…」もう夫が帰ってきちゃう

話をしていると、「でも」や「だけど」を多用する人がかなりの数いる。もちろん、僕自身も相手の話に賛同できない場合や、別の意見をもっている場合について使う言葉なのだが、こういった使い方をしている人が、実はとても少ない。

 

滅多やたらにこの接続詞を多用する人は、相手の意見を否定するただのウザいやつ、と見られることが多かった。何を言っても頭ごなしにすぐ否定をする。僕自身も彼らのことを「バカだなぁ」と思っていたし、なんで否定ばかりするのかなとも思っていた。そんなに自説の正当性を主張したいのか。

 

しかし、どうやら認識が間違っていたようだ。ここ最近ずっと、「でも」を使う人が、この言葉の後に、どんな言葉を繋げてくるのかをつぶさにチェックしていた。すると、「でも」「だけど」の次に返ってくる言葉は、僕の放つ言葉への否定的な返答でも反論でもなんでもなく、自慢話をし、マウンティングするためだけなのだと気付いた。

「でも、私は〜がすごい/優れているんだけど、お前の話は〜だ」はテンプレであり、「でも」が「でも」として機能していないのも明白だった。仮に反論を補強するために使っているのだとしても、別にそれを言うあなたの優れた経歴や経験が、後押しするわけでもあるまい。

 

自慢がしたいだけの人と話すのは酷く退屈であるので、このことがわかって以来、「でも」「だけど」の後、最初に返ってくる言葉次第では話を聞くのをやめることにした。だって自慢話を聞かされたところで生産性は何もないし、わざわざ相手の自尊心を満たすためだけに使う時間はあまりにも空虚であろう。そして外から見ても、とても、滑稽だよね。けれどタイトルのシチュエーションはウェルカムだ。