Spare Times

暇な時に書きます

意識高い系よりやっかいな、「友達自慢」という病

最近友達自慢ばかりする知り合いがいるんだけど、実にやっかいである。なんせ会ったことも名前を聞いたこともない人が会話の中で唐突に出てくるもんだから、その友人とやらの人となりが分からない。

 

さらにいきなり自慢話(武勇伝・学歴・社歴・成果etc.)だけを聞かされるので、その自慢を踏まえてあなたにどう反応すればいいのか分からない。それならまだ「昨日寝てなくてさっ」といった中学2年生並みの自慢を聞いていた方が、いくらか聞き流しやすいというものだ。

 

「すごい友達がいるんですね」とでも言いながら相槌を打つのが正解なのか、「うらやましいですね」と羨望のまなざしで、あなたのことを見つめれば正解なのか。たぶん、前者だろうし後者でもあるだろう。しかしながらそんな話を聞かされて、果たして敬意を持ってあなたに接したり、あなた自体をすごい人間だと思うだろうか?(Tehuくんは凄くウザいけどすごい人間だ)

 

そもそも「自慢」という行為自体に興味をもって接してくれる人というのはごく僅かである。ドヤ顔で成し遂げたことを報告されたり、有名人の彼女や彼氏がいたり、文化資本が高いことを誇らしげに語ることに、あなたの自尊心を満たすこと以外の意味を見つけることが難しいからだ。

 

むしろ、話を聞いている限りその素晴らしい環境のおそらく中心にいるであろうあなたの、つまらなさを際立たせてしまわないだろうか。あなたが自慢をすればするほど、そんな凄い友人たちに囲まれているのにも関わらず、あなた自信の自慢話がまったく出てこないことに違和感を覚えてしまうことの方が多いはずだ。

 

確かに友達がアイドルになったり、すごい賞をとったら自慢したくもなる。芸能人と仕事をしているという話も、うらやましいことには違いない。

 

けれどあなたがその高尚で素晴らしい事実を必要以上に語ることで、聞き手の興味は次第に語り手であるあなたに移っていく。あまりに長い話を聞かされても、知らない人の話なのだからイメージするにも限界があるし、起承転結のない自慢話は往々にして退屈である(自慢話は往々にして起承転結が無い)。

 

 

自慢話に飽きてきて、聞き手がふとあなたを見た時の表情に、あなたは果たして気付いているだろうか。

 

 

それでも気付かない無自覚なあなたには、こんな言葉を捧げたい。

 

 

 

「そうですか。それで、あなた自身はどんな偉業を成し遂げましたか?」

「若手ブランド」は成功の夢を見るか

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最近TwitterFacebookをみていると、若い人たち(まあU30としておく)の自己語りが非常に目立つなという印象を持っていて、そのことについて少し考えていました。そこにはもちろん、自分含まれてしまうわけですが。目立っている多くの人々は、自身の思考や仕事論みたいなものを、140字という枠をこえて語り続けるわけです。読んでいて理解できるものが多くある一方で、明らかに意味のない独善的なものが多すぎる。たぶん100倍くらい。

おしなべて、能力のない人たちが後者を垂れ流している。その人たちは自分の思考や仕事論を書くわけですが(もちろん言語化するのは非常に大事という前提はある)、もし「あたなには結局、どんなバリューがあるのか」と問うた時、ある人は「若さ」(=使い捨て)と言うだろうし、ある人は「見た目」(=能力がないことを隠すヴェール)と言うでしょう。また、ある人は「実績」(=見せかけのもの。たまたま受けただけで継続ではない案件など)しか言えないのではないだろうかと思ったりする。

それらって、全部消耗品で、一過性ですよ? つまり「若手ブランド」があるうちは機能するけど、いざ中堅になってしまうとその働きを失ってしまうものばかりです。

「若手ブランド」って「新卒ブランド」の次くらいに強いものだと思っているので、確かに効力はあるんだけど、新卒ブランドと同じく賞味期限があります。

消費期限と賞味期限:農林水産省



本当の意味での実績がある人は別として、そうした「若手」が述べる自己陶酔的な持論ほど中身がスカスカなものはなくて、陳腐な自己啓発書(自己啓発書嫌い)レベルの“なにも得られないもの”であるなと思うのです。



おそらくどこかで迷っているから、自己肯定のために垂れ流しているのだとは思うんだけど、結局そういう人たちはすぐに消えていくんだよね。別に会社員でもフリーランスでも一緒。そうして、消えていくべくして消えていく人を、まったくフックアップする気にはならない。でも彼・彼女たちにとっては今が楽しければ良いのかなと思うので、今を精一杯生きて、来世で幸せになって欲しい。

あるいは、今が楽しくないから自己肯定感を必死に高めている。何かに迷っているから自己肯定をするという人は、まず自己肯定感を捨てれば楽になれるのにねと思うのです。だって、いつまでたってもその能力と存在は肯定されることはないから。「若手ブランド」を失った後に、あなたに残るのはなんでしょう。空ろな人間に成り果てるだけでは? 

自分ももちろん含まれますが(自戒)、自分語りをえんえんとする能力のない人をどうしても受け入れられない。能力のない人がえんえんと語っている間に、能力のある人は粛々と仕事をしているのを知っているから、せめて静かにしてくれよ(2度目の自戒)。

「若手ブランド」がなくなった若手が、どうなっていくのかは、見ものだ。

思い出は未来の残骸【失恋手帖】

元カノにもらったものを捨てられないでいる。例えば、バッグ、財布、服や時計、それこそ身に付けるものはほとんど全て(プレゼントとして)買ってもらったので、捨ててしまうと買い直すのが大変に面倒くさい。そういった理由で捨てないでおくと、だんだん増えていくわけで、一緒に買った冷蔵庫やレンジなどの大きなものまであるから諦め、今はたぶん過去を引きずりながらの生活に、否応なく最適化されてしまっている。

 

過去に通り過ぎた様々な出来事について、僕はほとんど思い出すことができない。淡白なのかもしれない、執着心と、そもそも心がないのかもしれない。付き合っている際中ですら一度離れてしまうと相手の顔を忘れてしまう。「まゆみちゃん(仮名)かな? 」と思って話しかけるとだいたい別の人で、終いには財布の中に写真を入れ、それを見て顔を思い出すということをやっていた。当日使っていたスマホはレグザフォンという30年ほど前に動きが止まったような機種で、とにかく画面が動かなかったから。

 

当然相手は怒るわけだけど、うーん、そういう頭の構造なのだから仕方がないよと説明するといつも、電話越しで泣いていた。電話はしていても、僕は相手の顔を思い出すことができていない。顔の分からない誰か、どこかの誰かが泣いている。あなたは、誰だ。

 

電話が3時間ほど続いた後、相手が赤の他人のように思えて「じゃあ明日早いから」と雑な言い訳をしてから切って、電源を落とした。明日は休みだった。

 

大学時代に5年(1年休学していたため)付き合っていた彼女にしてもそれは同じで、最初の3年くらいは顔が分からなかったと思う。想像してみると、出てくるのは靄がかかったような顔。ある時そのことを打ち明けると、隣でむせび泣いていた。どうして泣いているのか僕は分からなくて、とにかく背中を摩っていたら見たい番組が始まったのでそのままテレビを付けて、バラエティ番組を笑いながら見ていた。横では、彼女が嗚咽していた。どうして泣いているのだろうか。

 

都内の出版社から内定の連絡をもらう少し前、LINEで唐突に振られた。「嫌いになったんですか」と聞くと、「好きではなくなった、というのが正しいかと」という他人行儀な会話が始まった。けど、たぶん付き合っていた時から他人だったのではないかな。5年という歳月も、他人を、そうではない関係に変化させるのは難しかったようだ。すれ違うことはなかった、けれど同じ方向を見ることもなかったように思う。

 

今も元気に暮らしていたら、あの時はどう思っていましたか? と聞いてみたい。振られた時は、自分も嗚咽してしまったが、感情が乖離した嗚咽には何の意味もない。いずれあの街に行けばまた会えたりするのだろうか。いや、もう会うことはないだろう。

 

思い出は未来の残骸だ。付き合ったばかりの頃に思っていたそれぞれの未来が重ならないまま、崩れ落ちてしまったものがここにある。思い出は未来の残骸。それならば、もう捨て去ってしまった方が良い。財布や時計をゴミ箱に詰めながら、次は何を買おうかと、iPhoneで調べながら考えている。

書評のボツ原稿を供養する②

あるところに勤勉な学生がいた。学生は卒業の目安とされている4年間では満足いかず、6年間の学生生活を心ゆくまで楽しんだ末、晴れて社会人になるという蝉のような人生を送っていた。勤勉な学生の持つ勉学以外の思い出は、複数のサークルをすぐに辞めたこと、複数のアルバイトをすぐに辞めたこと(シフトを出していないだけなので籍はある)、飲み会で自分の吐瀉物に何度もまみれたこと、友人の悪口をSNSで投稿していたのがばれてブロックされ、その子が所属するゼミの面々から「お前は死ね、本当に死ね」と言われたことなど、大学生なら誰でも経験するようなことばかりであった。

 

ゆえに、もちろん彼は大学生活に後悔の念など微塵も持ち合わせていなかったので、ある日、部屋の書棚に積んであった『大学1年生の歩き方』を何の気なしに手に取って読み始める。……おかしい。ひとつひとつ、ページをめくるに連れて、手は震え、瞳孔は開き、アイデンティティはクライシス。おまけに動悸がするし眩暈もする。彼は気付いた。初めから、全て間違っていたことに……。

 

私たちは自身の過去を振り返る時、ターニングポイントとなる時期を都合良く決めてしまうきらいがあるが、果たしてそれは本当に正しいのかという哲学的問いに本書は回答を与えてくれる。そう、大学時代に重要なのは、入学してからの1年間をどのように過ごすかだ。勤勉な学生は完全に間違えていた。だから言わせてください。「新入生よ新入生、このマニュアルをすぐに買いなさい。されば汝は救われん」

 

と、はるか東の島国で一匹の蝉が身悶えつつ自身の過去を回想しながら懺悔していた頃より遡ること数年、アメリカに住む一人の偉大な作家も自身の過去に起きた出来事に思いを馳せていた。作家は名をポール・オースターと言い、自身の肉体を巡る回想録『冬の日誌』、精神を巡る回想録『内面からの報告書』という2つのノンフィクション作品を連続で発表していた。自伝的作品という形式で、自身(語り手)について「君」という二人称が用いられることは珍しい。年老いたオースターが、「かつての自分」を「現在の自分」とは別の存在として切り離し、推して量ることの難しい様々な感情をもって「他者」として捉えることで、私たちこの一連の作品の読者も、彼と同じ目線で「君」を追体験することを可能とするのが本作の特徴であり機能である。

 

この文を書き終えたところで、以前Twitterで呟いていた「音楽のレビューで『◯◯の系譜、◯◯に影響を受けた』みたいな形容は聞き飽きたので『小学校の時、好きな子のリコーダーを舐めた時に誤って出てしまったあの微かな音のように恥ずかしいけれど興奮してしまうメロディ』みたいなエモさくれ」という発言は即刻削除した。やはり僕にとって、ほとんどの過去は黒歴史だ。そっと閉まっておこう。

書評のボツ原稿を載せます

 「烏丸おいけ」というペンネームは、京都の中京区にある「烏丸御池」という駅の名前をそのまま頂戴したもので、駅の周辺には、今はなくなってしまった新風館京都国際マンガミュージアム、あとは食べログで検索しても出てこないけれどほんとうに美味しいこぢんまりとした定食屋さんがたくさんあった。上京して何年も経つけれど、この土地には毎年足を運んで定食屋で飯を食う。烏丸御池は僕にとって、どこよりも特別な場所になった。

 

 歴史や文化の蓄積によって生まれる類型化できない固有の価値、それを体現している特別な場所にいる守護霊のことを「ゲニウス・ロキ(土地の精霊)」と呼ぶ。ある場所を強く意識するようになるのは、何かがトリガーになって、その土地の精霊と出会う瞬間なのかもしれない。

 

 第156回芥川賞候補作にして小説家処女作『ビニール傘』は、長年大阪に住みながら、京都にある大学のキャンパスで教鞭をとる社会学者・岸政彦が見てきた大阪の、建前ではない生々しい現実の姿がほんとうに細かく描写されている。ウディ・アレンは映画『ミッドナイト・イン・パリ』でゴミだらけのパリの街を「誰もが想像する華やかなパリ」に変貌させたけれど、岸は登場人物の淡々とした語りによって、大阪と、大阪に生きる人々のリアルな姿を泥臭く丁寧に掘りさげていく。本書を読み終えた頃には「十三」「中津」「堺筋本町」という断片的な記号だったものが、忘れられない地名として意味を持つ。

 

 「この街の、この国の夜は、こんなに暗い。」という岸政彦の帯文と、写真家・岡本尚文が撮影した沖縄の夜。表紙を見たとき、なぜだか胸が張り裂けそうになる。沖縄をフィールドに、未成年の少女への調査、支援を行なう教育学者・上間陽子の『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は、上間が故郷の沖縄で、4年間にわたって行なった聞き取り調査のルポルタージュ。夜の街に生きる若い女性たちの「選択」から、私たちは沖縄という土地に巣食う暴力や貧困という事実に、単に向き合うべきか。いや、重要なのは彼女たちが少ない選択肢の中で居場所を作り上げたことのかけがえのなさと、放置されている日本社会の構造的な問題に目を向けることだ。今日も彼女たちは裸足で逃げる。どこまでも。

 

 最後に異国の不思議な話を。津村記久子の短篇集『浮遊霊ブラジル』の表題作は、初めての海外旅行を前に死んでしまった72歳の男性が、アイルランドアラン諸島に行きたいという執念のため成仏できず、現世をさまよう浮遊霊になるというストーリー。やっとアラン諸島に行けるはずが、なぜかブラジルに辿りつき、そこで運命的な出会いを果たす。ちなみに浮遊霊って、土地の精霊と出会えるのだろうか。気になる。

 

TSUTAYA新宿店のアダルトコーナー

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いつものように、TSUTAYAの9階にあるアダルトコーナーでAVを物色していた。金曜日だということもあって、仕事帰りのサラリーマンらしき人たちが入念に物色している。それを横目でしばらく見ていた。ふと、目が合う。足早に7本のAVをオートメーションのレジカウンターに通し、郵便返却の手配を終えた後、黒光りする袋を抱えて足早にその場を去った。目線を交わしたおじさんは、宇宙企画のコーナーで再び物色を始めていた。

 

エレベーターに乗って1階のボタンを押す。途中のフロアで不意に止まり、以前「友だちになってください」という紙(レシート裏への殴り書き)を渡したマッサージ店のお姉さんと遭遇する。「また9階ですか?」と問われたので、「ハイ!」と元気よく返事をすると「気持ち悪い」と言われる。ドアが閉まる。絶対に友だちになれそうにない。

 

横断歩道の灯りが青色に変わるのを待っていた。横では男性が女性をナンパしている。新宿では見慣れた光景なので、それがナンパなのか勧誘なのかはすぐに分かる。金曜日だということもあって気分が高揚している男性は、わりとしつこく女性を飲みに誘っていた。そういえば近くに良いバーができたことを思い出して、ああ、あそこに行きたいんだろうなあと思いながらその光景をずっと見ていた。先ほどのおじさんの事例にしてもそうだが、人を凝視するクセがある。

 

迷惑行為防止のアナウンスが聞こえてくる。男性は一向にやめる気配がない。「迷惑行為防止条例」には、一応、つきまといも含まれているのだが、その声は誰の耳にも届かない。当事者にも届かなければ、イヤホンをして歩いている多くの人にも届かない。アナウンスだけが一人、何かを訴え続けている。リヴァーブはない。

 

タワーレコードに向かっていた。途中、居酒屋が密集している場所があって、たくさんの客引きに遭遇する。客引きに付いて行ってはならないという旨のアナウンスが流れている。「客引きはやめなさい」と声高に叫ぶ人たち。その横では客引きたちによる、客引き行為が行われている。

 

居酒屋お探しですか、客引きはやめなさい、居酒屋お探しですか、客引きはやめなさい。交互に聞こえるふたつの言葉が相対することはない。「客引きはやめなさい」の人は、客引きの正面から、客引きに直接言及することはない。どこかにいる架空の客引きに対して何かを訴えている。そうして今日も新宿の治安は守られない。交わることのない声が響く。

 

路傍の石、路傍の花、路傍の人、路傍の話。路傍にあるたくさんの何か。空虚の中に包み込まれていく。誰の目にも触れない、誰も路傍に目を向ける人はいない。常に自分が世界の中心にいると錯覚させる街。ネオンが眩しい。ほんの少し甘い、夜を食んでいる。

 

https://youtu.be/cPvywqXzbdc

 

28歳になってしまった

 28歳を都内でむかえた。苗場ではない、都内である(ここは来年のために強調しておく)。28歳になってしまった。お祝い頂いた皆々様、本当にありがとうございます。今年はいい子になります。

 

 18歳の夏、部活をサボって校舎の4階にある教室からグラウンドを眺めていた。向かって左側には野球部とサッカー部、真ん中には陸上部、その周りにソフトボールラグビー部があり、右側には自分の所属していた硬式テニス部と軟式テニス部があった(あとバスケ部が外で使う空き地があった)。みんなが真剣に取り組んでいるなか、なぜだか自分だけがその輪の中に入れない。理由はわからない、怪我も治っていたはずなのに。

 

 ひとり教室でぽつんと座っていると、時折クラスメイトや他のクラスの人たちが入ってきて、一緒に校庭を眺めたり、とりとめのない話をしていたのだけど、今考えるとこれは青春だな。

 

    For Tracy Hydeのアルバム『Film Bleu』を思い出す。あと、前に書いてもらったコラムで、Helsinki Lambda Clubの橋本くんが「青春は曖昧だ。何となく始まって何となく終わる」と言っていたんだけど、まさにそうで、たぶん何となく始まって何となく終わったのはその時期だった。


For Tracy Hyde 1st Album "Film Bleu" Trailer

 


Helsinki Lambda Club − しゃれこうべ しゃれこうべ (official video)

 

 入れ替わり立ち替わり人が教室に入ってきて、しばらく話すと出ていくみたいなことになっていたから、展示会で在廊している出展者が来場客と話すようにひとりひとりと言葉を交わしていく。

 

 廊下に目を向けると、おそらく高校で4番目くらいに可愛かった女の子が歩いている。でもビビってしまい、話しかけることができなかった。彼女は今、Twitterのフォロワー約10万人、Instagramのフォロワー約14万人を従える人気グラビアアイドルになってしまったから非常に惜しいことをした。本当に惜しい。ちゃんと仲良くなれば良かった。マジで惜しい、どうしよう。

 

 

 

 一息ついたところで、美術の課題をついでにやっておこうと大判の画用紙を取り出し、グラウンドの風景を白紙の上に鉛筆で描写する。窓から入る風が心地良い。波打つようにさざめくカーテンから、静かに、ランダムに生成される音をずっと聴いていたい。

 

 そうすると結局、日が暮れてから家路につくようになる。帰宅すれば受験勉強のためにデッサンをしたり、犬と戯れたり、好きな子からメールが来ないかな〜とソニーエリクソンのケータイで10分おきにセンター問い合わせをしていた。その子の着信音はBUMP OF CHICKENの「ギルド」だったんだけど、ついぞ、“愛されたくて吠えて”というサビを聴くことはなかった。先日、風の噂で母親になったことを聞いた。

 

 あれから10年が経ったから当然、環境も変わる。夢見ていた職業についているわけではないし、飼っていたペットは死んでしまった。当時の友だちのほとんどとは疎遠になった。カープが優勝した。

カープが優勝したら宿題は無しにする - Spare Times

 

 時間の経過で一番残酷なことは、老化とか加齢臭とか会社で左遷されてしまうとか不祥事でクビになるとかそういうことではなくて、何かを“喪失”してしまうこと。機会、友人、家族、動物、ほかにも数えきれないものを失っていく。

 

 個人的には去年『こち亀』の連載が終わったことで、本当に寝込んでしまいしばらく家から出ることができなかった。友だちが亡くなった時よりも動揺していた。

 

   自身のアイデンティティ形成に『こち亀』が果たした役割は大きい。と感じることができたのは失ってしまったからで、喪失にも必ず意味があると信じている。

 

 

 あれっ、27歳になった時のブログより前向きなことばかり書いている。たぶん、この1年間がとても楽しかったからなんだろうな。

 

 インターネットでクソリプを飛ばしてくるアカウントは別にして、あらゆるところで出会ったあらゆる人がみんな面白かった。

 

    道ですれ違って突然殴りかかってくるおじさん、丸ノ内線に乗っていると四谷三丁目あたりで「お前なに?なんか言いたいことあるの?」と絡んできたので「は?殺すぞ」と言って少しトラブルになってしまったサーフブランド・PIKOを着こなすお兄さん(PIKO太郎)、自己中心的な大人、データに基づいた分析ができない大人、そういう人たちですら、エンタメだと思えた。

 

 なので歳を取ったという若干の寂しさはありつつも、前向きに30代へ向かって歩いていけると強く思いました。27歳と28歳、意外と簡単に、線としてつながった。絡まらないよう気を付けたい。

 

 

karasumaoike1989.hatenablog.com

 

参考文献:辛酸なめ子,『大人のコミュニケーション術』(光文社新書