Spare Times

暇な時に書きます

芸術家になりたかった人の日記

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雨音がうるさくて眠れないからはてなブログを漁っていると、上の記事に出会った。僕は大学に6年間通って親を嘆き悲しませたという黒歴史を持っていて(その時の話を『クイック・ジャパン』vol.131のコラムで書いた)、誰かに話すときは「自分は怠惰な大学生で」と茶を濁すことが多い。

 

卒業した近畿地方の大学に入学したのは20歳の時。4年通った後にモラトリアムから逃れられずに1年残り、関東にある、国の研究機関に出入りして、研究のまねごとをしてから卒業して編集者になった。先日友人の結婚式でゼミの指導教官に久しぶりに会ったのだけど、卒業していないと思われていた。

 

ソーシャルメディアだとか炎上だとかの研究をしていたため、その時の癖が今でも抜けきれずに連日連日SNSに入り浸ってはどこかの誰かの会話や記事を眺めている。あの頃のように、論文を読んだりデータを分析する力はもうないので、恨みつらみを書いているだけ。先日裏アカウントで人の悪口を書いたら炎上して晒されたので少しつらい。

 

という前置きをした上で記事の話に戻りたいんだけど、僕は芸術の世界で生きていきたいという思いが中学生くらいから芽生えたため、高校に入ってすぐに芸大や美大オープンキャンパスによく通っていた。うちの高校には芸術コースなるものがなかったので、国立大学進学コース(文系)にいたんだけど、みんなが「国立!公立!」と息を荒くしていたその横で、アダルトサイトをよく見ていた。あと流行っていた前略プロフィールやモバゲーや同級生の女の子のホムペを見ていた。

 

受験の時期になると希望する進路別に教室に集合させられて先生から話を聞く。僕は迷わず「芸術・その他」のような雑多な区分けの教室に向かうことにした。ドアを開けるとほとんどが「その他」に行くような人たちばかりで、「芸術」はたぶん3人くらいしかいない。「芸術」はそのようなものなのかと地方の公立高校の、小さな教室の中で悟る。

 

僕は芸術家になりたかったけど、周りにそのような人はほぼいなかったので担任の国語教師に相談にいったら、芸術大学美術大学は学費が高いと教えられて、ほとんど就職できないと言われて、最後に、それでもとても価値のある場所だと言われた。先生は演劇部の顧問だった。

 

推薦入試なるものの存在を教えられたので、内申と実技が受験項目にあったから過去問が載っている冊子を取り寄せて勉強を始めたけど、全然参考にならないので絶対に予備校に行った方がいい。推薦入試は福岡で受けた。とんこつラーメンが美味しかった。しばらくしたら合格通知が届いたので、親を説得して、芸術家になるスタートラインに立てることになった。

 

Yahoo!知恵袋でその大学のことを検索してみると、以下のような文言がならぶ。

 

・関西では変わり者大学と呼ばれている。
・学費は他の芸術系大学と比較すれば安い方
・芸術系大学では上位校。
・とんでもない田舎にある。
・男子学生約3000人女子学生約4000人合計約7000人。日本最大の芸術系大学。
・有名人を多数輩出。
・夏休みが短い。
・歴史があるため就職は他よりは良い。
・良家のお坊ちゃま、お嬢様が多い
・かっこいい男子、かわいい女子が多い。
・国立大学とよく間違えられる。
・教授陣に有名人が多数。
毎日新聞社毎日放送系列。
・大学設立時に塩じいが多大な尽力を貸した
・理事長と教職員がよくケンカになる
・勘違いしている学生が多い
・アニメ、フィギィア好きのオタク多い
・課題、実習が多くバイトが出来ない
・自殺者が多い
・落書きノラ犬多数

 

「自殺者が多い」……。在学中には誰も自殺していないようだったので、ひとまずこれは嘘だと信じたいけど、合っていることも違うこともいくつかあって、「とんでもない田舎にある」がめちゃくちゃ当たっていた。入学してサークルにも入って授業を受けているうちに周りとの温度差に気付き、芸術家になることをその年の秋くらいには諦めて、冬に大学を受験して普通の大学に入ったところで芸術家になりたかった人間の、芸術家を目指す人生は閉幕した。

 

今は芸術家をやっている人たちと一緒に仕事をする機会を得たので、時々あの頃の気持ちを思い出しては、もう戻れないんだとか、別の大学だったらどうだったかとかを、たまに考える。

 

当時の同級生の多くは就職をしていないし、就職をしたとしても予備校の講師として、芸術でないものを教えてたり、ライターをやったり、メーカーに勤務している。中退してどこへいったか分からない人が結構いると風の噂で聞いた。たぶん僕もその中の1人だ。

 

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の原作を改めて読み返しながら、そんなことを考えている。この話に落ちはないんだけど、あのレールから落ちることを選んでよかった。ダラダラと通い続けなくてよかった。好きでもないものを作らなくてよかった。芸術を嫌いにならなくてよかった。僕は芸術家になれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空ろな人間

盲目でないとすれば

この目にも、永遠の星や

花びらが幾重にも重なった薔薇が

見えるだろう

死にゆく黄昏の王国で

空っぽな人間の

残された希望として

 

こんなふうに、世界は終わる

こんなふうに、世界は終わる

世界の終りは、爆発音ではなく、すすり泣く声で。

「出会い」を構築する手段と不可視のカルチャーを巡る問い

書店について考えたこと。キュレーションによって「出会うきっかけを構築する」新しい書店はとても文学的で魅力的な一方で、オールドタイプの大型書店の保持する、ある種、博物館(倉庫)的な機能や量によって担保される安心感には凄まじい魅力がある。

 

それは特に里帰りした時に痛感すること。新たな読者を得るための「出会い」の提供には大きな価値があるけれども、既存の読者を離さないためにはやはり“わざとらしく”区分けされ、且つスペースが確保された書店で出会う「無意識の出会い」も大切になる。これは書店のサバイブの話ではなく、機能の話。

 

大型書店が「出会い」に対して胡座をかいているとは全く思わなくて、むしろパラダイムが変わり続けて行く中で、その動向を注視して動いている(すべてではないにしろ)。リアルな場としてのコミュニティを持っている。ブックフェアできちんとキュレーションをしている。

 

なので大型書店のなかに小規模のキュレーション型書店的な機能を組み込むのが理想的なんですが、たとえば蔦屋書店がやっていることがそれに該当するかといえばまた違う。ライフスタイルと本の融合はマーケ的にはある意味正しいけど、分断が必要。それは書店が提供するのではなく、読者が判断すること。

 

ライフスタイルの押し売りみたいなのはあまり好きではないし、組み込むのも好きではない。それはカルチャーではなくて、カルチャーを押し売りしているように見える。カルチャーはそれぞれ個別に分けられていて、それぞれの個人が能動的に獲得するもの(であって欲しい)。カルチャーに疎い人間の発言なので、悪しからず。

 

カルチャーに疎い人間が安易にカルチャーという言葉を使うべきではないし、カルチャー誌などとも分断されて生きている自分としてはカルチャーという曖昧模糊で悠然自得で不可視である一方、大きなパワーを持った概念がどんなものか分からないのですが、個々人に「カルチャー」は確かにある。そのことを考えていきたい。

竹原ピストル

2009年活動休止の野狐禅。ソングライターである竹原ピストルが作り上げた『初恋』は、そのタイトルが表象する「純真さ」ではなく、「不器用なさま」を泥臭く歌い上げる。歌詞の中では一貫して、「挫折」「奮起」という主題と(竹原ピストル自身が)向き合い、それを「初恋」になぞらえて扱う。ーー「強くならなくては」と拳を握りしめるたびに興奮するよ せつなくなるよ明日が待ちきれないよ 初恋みたいだーー、ーーこっそりと僕はもう逃げませんーー、というフレーズには、現在も年間200回以上のライブを行うピストルの、“身の丈に合った曲を”という哲学が凝縮されている。本当に泥臭いけれど、美しいのはなぜだろう。

「一貫性」って結構大事だと思うよ

 

絶対ブレない「軸」のつくり方

絶対ブレない「軸」のつくり方

 

 



議論については(選択肢のない人も)おいといて、ライフプランを考えるにあたり「一貫性」というのはとても大切だと教えられました。自分自身も、軸みたいなものがあることは非常に大切だと思っています。そして一貫性や軸がないと成功もしないとも。この逆を「迷走」とします。

 

一貫性については二軸に分けられると思います。すなわち、自己/他者 として。

 

まず、ある目的を持った人が、目的に向かって何か行動を起こすこと(それは転職でも大学院に入るでもいいのですが)。そこには自分自身のゴールがあり、ゴールを目指して様々な職を経験するなり大学院にて学ぶなどするわけです。

 

ここにはゴールを目指して何か行動をする、という一貫性がある。目的が決まっているので多くのことを経験したとしても、目的に直結したものとなり、ここには一貫性を見出すことができるでしょう。

 

他方、他者のまなざしにおける一貫性はどうでしょう。ここでは、他人に説明できるかどうか、を念頭に置いた話にした方がいいかもしれません。

 

例えばまったく違うジャンルの職に飛びつき、面白いと思ったことだけをやる人は間違いなく一貫性がない。するとどうなるかというと、一部の天才は除き、多くの凡才に向けられるまなざしは、信頼性の欠如です。なぜならば、簡単ですが一貫性のない行動には信頼が伴わないから。

 

他人から見て、あっなるほどと思われる人(マーケを極めたいので特色ある会社に次々と入っている)はやはり信頼できるし、他人に説明できる人もやはり、軸や一貫性というものがはっきりとしている。

 

「迷走」は、一部の天才だけに許されたことで、多くの人は迷って走って終わります。ここも、将来の目的(なんとなーくやりたいこと)がぼんやりとでも見えている上での迷走ならば問題はない。

 

もちろん、すべての人間が生まれつき一貫性や軸を持っているわけではないので、いくつか迷走することに意味はあるのですが、それがアラサーやアラフォーになってもまだ迷っているならば、目的を考えて逆算することから始めるといいのかなと思います。

 

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手っ取り早く、『ONE PIECE』を例にして説明しましょう。海賊王を目指すルフィは「ラフテル」という島にある「ONE PIECE」という宝を手に入れるべく冒険を続けます。

 

道中で仲間と出会い、新しい価値観を得る。それは人の目的などが左右されるリスクもあります。当然海賊なので色々な島におりるわけですが、最初は自分の行きたい島へ、グランドラインに入ってからはログポースの指し示す島へ行きますが、ルフィは必ずその島を後にします。定住しない。

 

新しい仲間との出会いによる価値観の獲得、多くの島におりることで知る未知の楽しさ。これをそのまま享受してしまうと「迷走」になりますよね。だって目的地は「ラフテル」なのだから。

 

ルフィはどんなことがあっても、「ラフテル」にある「ONE PIECE」だけを目指します(一回諦めかけた?)。そこが目的、ゴールだからです。もちろん、宝箱の中身は開けてみないと分からない。が、一貫性における、軸における大切なものはそこにあると思うのです。

 

一貫して目指すからこそ手に入るもの、それは当初の目的でもいいし、別のものでもいい。一貫性とは、その過程を大切にするものでありたいですが、目的に向かって行った際に、後悔が残らないものだと思います。

 

意識高い系よりやっかいな「友達自慢」という病

最近友達自慢ばかりする知り合いがいるんだけど、実にやっかいである。なんせ会ったことも名前を聞いたこともない人が会話の中で唐突に出てくるもんだから、その友人とやらの人となりが分からない。

 

さらにいきなり自慢話(武勇伝・学歴・社歴・成果etc.)だけを聞かされるので、その自慢を踏まえてあなたにどう反応すればいいのか分からない。それならまだ「昨日寝てなくてさっ」といった中学2年生並みの自慢を聞いていた方が、いくらか聞き流しやすいというものだ。

 

「すごい友達がいるんですね」とでも言いながら相槌を打つのが正解なのか、「うらやましいですね」と羨望のまなざしで、あなたのことを見つめれば正解なのか。たぶん、前者だろうし後者でもあるだろう。しかしながらそんな話を聞かされて、果たして敬意を持ってあなたに接したり、あなた自体をすごい人間だと思うだろうか?(Tehuくんは凄くウザいけどすごい人間だ)

 

そもそも「自慢」という行為自体に興味をもって接してくれる人というのはごく僅かである。ドヤ顔で成し遂げたことを報告されたり、有名人の彼女や彼氏がいたり、文化資本が高いことを誇らしげに語ることに、あなたの自尊心を満たすこと以外の意味を見つけることが難しいからだ。

 

むしろ、話を聞いている限りその素晴らしい環境のおそらく中心にいるであろうあなたの、つまらなさを際立たせてしまわないだろうか。あなたが自慢をすればするほど、そんな凄い友人たちに囲まれているのにも関わらず、あなた自信の自慢話がまったく出てこないことに違和感を覚えてしまうことの方が多いはずだ。

 

確かに友達がアイドルになったり、すごい賞をとったら自慢したくもなる。芸能人と仕事をしているという話も、うらやましいことには違いない。

 

けれどあなたがその高尚で素晴らしい事実を必要以上に語ることで、聞き手の興味は次第に語り手であるあなたに移っていく。あまりに長い話を聞かされても、知らない人の話なのだからイメージするにも限界があるし、起承転結のない自慢話は往々にして退屈である(自慢話は往々にして起承転結が無い)。

 

 

自慢話に飽きてきて、聞き手がふとあなたを見た時の表情に、あなたは果たして気付いているだろうか。

 

 

それでも気付かない無自覚なあなたには、こんな言葉を捧げたい。

 

 

 

「そうですか。それで、あなた自身はどんな偉業を成し遂げましたか?」

「若手ブランド」は成功の夢を見るか

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最近TwitterFacebookをみていると、若い人たち(まあU30としておく)の自己語りが非常に目立つなという印象を持っていて、そのことについて少し考えていました。そこにはもちろん、自分含まれてしまうわけですが。目立っている多くの人々は、自身の思考や仕事論みたいなものを、140字という枠をこえて語り続けるわけです。読んでいて理解できるものが多くある一方で、明らかに意味のない独善的なものが多すぎる。たぶん100倍くらい。

おしなべて、能力のない人たちが後者を垂れ流している。その人たちは自分の思考や仕事論を書くわけですが(もちろん言語化するのは非常に大事という前提はある)、もし「あたなには結局、どんなバリューがあるのか」と問うた時、ある人は「若さ」(=使い捨て)と言うだろうし、ある人は「見た目」(=能力がないことを隠すヴェール)と言うでしょう。また、ある人は「実績」(=見せかけのもの。たまたま受けただけで継続ではない案件など)しか言えないのではないだろうかと思ったりする。

それらって、全部消耗品で、一過性ですよ? つまり「若手ブランド」があるうちは機能するけど、いざ中堅になってしまうとその働きを失ってしまうものばかりです。

「若手ブランド」って「新卒ブランド」の次くらいに強いものだと思っているので、確かに効力はあるんだけど、新卒ブランドと同じく賞味期限があります。

消費期限と賞味期限:農林水産省



本当の意味での実績がある人は別として、そうした「若手」が述べる自己陶酔的な持論ほど中身がスカスカなものはなくて、陳腐な自己啓発書(自己啓発書嫌い)レベルの“なにも得られないもの”であるなと思うのです。



おそらくどこかで迷っているから、自己肯定のために垂れ流しているのだとは思うんだけど、結局そういう人たちはすぐに消えていくんだよね。別に会社員でもフリーランスでも一緒。そうして、消えていくべくして消えていく人を、まったくフックアップする気にはならない。でも彼・彼女たちにとっては今が楽しければ良いのかなと思うので、今を精一杯生きて、来世で幸せになって欲しい。

あるいは、今が楽しくないから自己肯定感を必死に高めている。何かに迷っているから自己肯定をするという人は、まず自己肯定感を捨てれば楽になれるのにねと思うのです。だって、いつまでたってもその能力と存在は肯定されることはないから。「若手ブランド」を失った後に、あなたに残るのはなんでしょう。空ろな人間に成り果てるだけでは? 

自分ももちろん含まれますが(自戒)、自分語りをえんえんとする能力のない人をどうしても受け入れられない。能力のない人がえんえんと語っている間に、能力のある人は粛々と仕事をしているのを知っているから、せめて静かにしてくれよ(2度目の自戒)。

「若手ブランド」がなくなった若手が、どうなっていくのかは、見ものだ。